小舟はそれからもずっと川をくだっていった。
先程見えたロンジェ村が燃えてる様子が脳裏に焼き付いたままで、ロビンはじっと黙っていた。
シャルルは小舟のバランスをとるために少し離れたところに座っている。
特に話すことはない。いや、話すことがたくさんありすぎて、今話すのはふさわしくない。
よくわからないが、今話したらだめだと感じてロビンは唇を噛んで顔を膝の中に埋めた。
「ロビン」
しばらくしてシャルルが声をかけてくれた。
顔を上げると、小川が水路に入る寸前のところだった。
見たこともない大都市だ。水路際に石でつくった植木鉢があり、花がおじぎするようにこちらに垂れ下がっている。
ロビンは口を少し開けてそれを見上げた。
小舟はさらに揺れながら進む。とまる気配がない。
「大丈夫かな? この先……どうなってるんだろう」
不安そうにロビンがそうつぶやくと、シャルルが鼻をくんと動かした。
「潮の香りがするな。この先は塩の湖か?」
たしかに潮の香りが少し鼻をかすめる。ロビンは小舟の先を見ようとして立ち上がろうとした。その瞬間、洗濯竿でいきなりおじさんが小舟を引き寄せる。
危うくバランスを崩しそうになった。おじさんはロビンを抱きとめて、シャルルの手も引いて引き上げた。
今まで乗っていた小舟がそのまま遠くへと流れていくのが見えた。
おじさんはシャルルの手を引いて、階段を上がった。
水路は裏口から家に入れるつくりになっていた。
「ここから先は海だよ。あぶない、どこから来たの」
おじさんの言った言葉にシャルルが眉をひそめる。
「海? ウミ湖か」
ロビンは本をたくさん読んでいるから、陸地と陸地を分ける海というものを知っていた。だけど森育ちのシャルルはそんなこと知るはずもない。
おじさんはじっとシャルルを見つめた。
「海を知らないの? 本当にどこから来たの。ちょっとカミさんとこいこうか。訳ありそうだし……」
裏口の扉を開けると、中は石造りなこともあってひんやりとしていた。
「シャルル、きれいなお家だね。石でできているよ」
ロビンがそう言ったが、おじさんに手を引かれているシャルルは黙ったままだ。
おじさんはシャルルに着替えを渡した。続けてロビンにも着替えを渡してくれた。
なぜか子供の服が部屋の端に袋詰されている。
「おさがりをバザーで売ってくれないかって親戚に言われたばかりでね。運がよかった」
おじさんはそう言って、カミさんの名前を大声で呼んだ。ステラという名前の奥さんがいるようだ。
シャルルもロビンも男の子の服に袖を通した。ボタンの位置が逆で少しもたつきながら、ロビンは久しぶりに神官の衣装以外を身につけた。
ごとん。と金属が床とぶつかる音がした。
着替えている最中にシャルルが腰にさしてた銃を落としたのだ。
おじさんはそれをひょいと拾った。
「没収。大人になったら返します」
「大人になるまで世話してくれるわけじゃないだろ。返せ! それがないと……」
噛みつきそうな勢いで怒鳴るシャルルを見て、ロビンはそんなに怒鳴らなくてもと内心思った。
助けてくれた人にあんまりじゃないだろうか。
シャルルは何かに警戒しているような気がしている。村が燃えていたり、森で攫われたりしたばかりで、気が立っているのかもしれない。
おじさんは「ふうむ」と唸る。
「そうかぁ。ちょっと待っててね」
おじさんはカーテンをめくって隣の部屋に消えていった。ひそひそと誰かと話す声がする。
「ステラ、役所で養子の登録の仕方調べてきてくれないかな」
「わかったわー。サシャったら、決断が早いわね。そういうところ、好きよ」
隣を見ると、シャルルが勝手に話を進めるなという表情であるき出そうとしていた。
ロビンはシャルルの腕を掴んで制止した。
口パクでシャルルに伝える。ここで暮らしたほうがいいと。
シャルルはなにか言いたげに目を細めた。
そこで戻ってきたおじさんと視線があった。
「聞こえちゃってたか。おじさんは決断力のある男です。サシャ=ハルトマン、お医者さんだよ」
シャルルが口を開く前にロビンは大声で言った。
「お願いします! 僕たちを世話してください。お手伝いできることはします」
「いいのか?」
シャルルがロビンに確認するように言った。
わかっている。彼らに会ったばかりで、ここがどこかも知らないのに大丈夫なのかということだろう。
どこの馬の骨ともわからないのはこちらだというのに、シャルルはサシャおじさんのほうが怪しい人のような言い草だ。
「このままじゃ、仕事にもつけないで死んじゃうのが目に見えてるよ。だって僕たち、村から一度も出たことないんだもの。海も知らないんだよ! 僕たち」
シャルルがそれがどううしたという目でこちらを見た。
「シャルル、海知ってる!? ウミ湖じゃないんだよ。もっと広いの!」
「そ、そうだな」
気圧されて、海がなんなのかもわからないまま、シャルルは黙った。
サシャおじさんはにこにこ笑って、シャルルの頭を撫でた。
「そうか海知らないんだよね。じゃあ、いっしょに見に行こうか」
シャルルは黙ったままだ。頭を撫でられるのがシャルルは好きではないのをロビンは知っている。
「おじさんも言葉を知るまではいつも見ているものが海だって知らなかったんだよ。シャルル、恥ずかしいことじゃないよ」
そう言ってサシャおじさんはシャルルの手を引いて、ロビンの手も引いて、入ってきた勝手口とは違う正面の玄関らしき扉を開けた。
人通りの多い石畳の道を手をつないで三人で歩く。ロビンはきょろきょろとしている。
突然サシャおじさんがシャルルとロビンを抱き上げたので、地面が一気に遠くなった。
「ごめんね。靴をまだ買ってなかったことを忘れてたよ」
人混みを避けながら、サシャおじさんはさらに表通りを進む。
橋を渡るときに、一面の青い水が見えた。
「あれは全部塩水なんだよ。あれが海だ。流れていったら、小舟なんてあっというまに波に呑まれて沈んでいたんだよ?」
そう言って、橋の途中にある露店に並んでいた可愛らしい布の靴を見つけて、地面に彼らをおろした。
「この布の靴、とりあえずいくら?」
露店のおばちゃんはロビンの足元を見つめて、言った。
「この子はこの靴で大丈夫かもね。足が小さい。年齢にあった靴を買わなきゃだめだよ、お兄さん」
そう言って向かいの古着屋を指差した。
「あそこの汚い靴は可哀想だけど、あのくらいのサイズじゃなきゃ隣の子の足は入らないよ」
サシャは困ったような顔をした。
「あの靴で十分だ」
シャルルはそう言った。
サシャおじさんは「この布の靴を買います」と言って、ロビンの靴だけ買った。
「歩けるね?」
ロビンはサシャおじさんにそう言われてうなずいた。
シャルルはまた抱っこされるのは嫌だという顔をしていた。だけどおとなしく靴が手に入るまでは辛抱するつもりで、抱っこされた。
ロビンに向かって差し出されたサシャおじさんの手は、大きかった。
二人を連れて、役所まで向かったサシャおじさんは、そこで事情を説明するために別の部屋に行ってしまった。
明り取りの窓からは光が差しているが、シャルルが降ろされたソファはロビンの影になっていてシャルルの表情はよく見えない。
ロビンは一歩どいて、シャルルの顔を見た。なにか納得してないような表情をしているシャルルが眉を寄せている。
「シャルル、ねえ。だけどさ、二人だけじゃ」
「わかってるよ」
遮るようにシャルルは口早に言った。特にイライラした口調ではない。
「でも俺、猟銃しか使えないんだ。ここじゃ猟師の仕事はない。見ればわかる。お前が正しいって」
シャルルの声が涙まじりの声だったので、ロビンはもう一度退いたところへ戻り、シャルルの顔が影になるようにした。
サシャおじさんたちのお話は長いのか、ちっとも戻ってくる気配はない。シャルルの手を握ったまま、ロビンは静かに佇んでいた。
シャルルは海を知らないだけだ。でもロビンは、猟銃の使い方すら知らない。どうやってお金を稼げばいいのかすら知らない。それどころか、お金を払って買い物をしたことすらなかった。
「お話長いね」
シャルルの小さな泣き声をごまかすようにロビンは言った。
涙を飲み込むように、ごくんと喉が動き、やせ我慢のようにシャルルは泣き止んだ。
袖で涙を拭いたシャルルを見て、ロビンはこれでよかったのか少しだけ不安だった。もっとも、これ以上にないチャンスでもあるわけだが。
「サシャおじさんはきっといい人だよ」
シャルルに言い聞かせるように言った。
ロビンの手を握って、シャルルは言った。
「俺たちは二人きりだ。これからは兄弟みたいなもんだ」
「……うん」
気圧されて、重々しい空気ができた。
受付のお姉さんが険しい表情で近づいてきて、ロビンの前にしゃがみこんだ。
うるさいと言われたらどうしようと思って身構えると、目の前に黒い棒が現れた。
「ゲレシャポッキー知ってる?」
依然として険しい表情のお姉さんに、この棒がどうかしたのかとロビンとシャルルも険しくその棒を見つめた。
「骨の髄までボキボキ。ゲレシャポッキーの広告のフレーズよ」
「なんだそれは」
シャルルが思わず突っ込む。シャルルとロビンに一本ずつお姉さんはそれを押し付けた。お姉さんが咳払いをして、ボキボキと音を立てながらそのゲレシャポッキーを食べだす。
「ボキボキ言わせながら食べてご覧。喉の奥まで突っ込んじゃだめよ?」
お姉さんの口から甘い香りがする。
ロビンとシャルルは言われたとおりにボキボキ音をたてながらかじった。甘くて苦い味が、口の中に広がる。
「甘い! 飲み物!」
「水!」
お姉さんがびっくりしたような表情で飲み物を探した。
「す、水筒だけど!」
差し出されたものをロビンが手に取る前にシャルルがごくごくと飲み干してしまった。ロビンはじっとシャルルを見つめた。
「悪い。お前も飲まず食わずだったのに」
お姉さんのほうが目を丸くした。
「ええー! いつから? 大変。ボス、ボス。飲まず食わずの子たちにゲレシャポッキーをあげちゃったの。今ポッキーで喉が渇いてる子が二人になっちゃって、大変なんです!」
おっちょこちょいなお姉さんがサシャおじさんとボスさんの面談を邪魔しに行ってる。
「僕、もう喉渇いてない。甘いのもなんとかなった」
「言うな。喉が渇いたふりをすれば水分補給ができる」
なんのサバイバルだよと思いながらロビンはサシャおじさんたちが急いで戻ってきたのを見てほっとした。
水をもらって、しばらく待ってるように言われたので二人で待っていた。パンフレットには「花の都ベネツェ」と書いてあった。
「シャルル、字読める?」
「なんて書いてあるんだ?」
「はなのみやこ、ベネツェ。だよ?」
「花は木に咲いてるやつか? 地面に生えてるやつか?」
「わからない」
そうこうしているうちに、サシャおじさんがシャルルのための靴を買ってきてくれた。ちゃんとしたブーツだ。
ロビンは、これは高かったんじゃないかなと思いながら、シャルルがそれを黙って履くのをじっと見つめていた。
サシャおじさんはにっこり笑ってこう言った。
「お腹すいたね。戻ろうか!」
2017 Geresha open.